観光客の哲学 エアポート・シリーズ
2016
科学技術の墜落
1960s
出発するということは失うということでもある。出発するとき、われわれはホームや港を放棄するばかりではなく、平穏さも放棄して、速度の暴力に我が身をゆだねる。速度とは乗り物がうみだすおもいもかけぬ暴力であり、それは通過するすべての場所からわれわれを乱暴にひきはなす。
ポール・ヴィリリオ『ネガティヴ・ホライズン』
この命題を端的にあらわすのがエアポート・シリーズである。
エアポート・シリーズとは、『大空港』を最初に全4作続いた映画のシリーズのみならず、B級映画の配給でお馴染みアルバトロス株式会社が、本来エアポートシリーズと無関係な映画の邦題を、エアポートとした作品群も指す。ここでは、アルバトロスに倣い広義のエアポートシリーズも扱うが、それに加え旅客機といった民間航空機や空港を舞台とする映画も扱うこととする。
まず、旅客機といった民間航空機や空港を舞台とする映画の歴史を振り返ることするが、その歴史は浅い。そもそも、旅客機自体が登場したのが第一次世界大戦後、ジェット旅客機が誕生したのが1950年代、大衆化したのは1960年代以後のため、映画の舞台として登場するのはさらに後である。
そのエアポート・シリーズの前史として『サンダーバード6号』はある。イギリスの人形劇による特撮テレビ番組、『サンダーバード』の劇場映画として1968年に公開された本作は、天才科学者ブレインズによる最新鋭の飛行船スカイシップ1号を舞台とする。テレビ番組の時点で、第1話から最新鋭の旅客機が登場し、映画本編においても科学技術が進んだ未来という時代設定のため、飛行船は過去の遺物だ。そのため、本編では前時代的なゆったりと余裕を持った旅行のスタイルとして、飛行船が提示される。そして、ブレインズを乗せた飛行船でイギリスを出発した一行は、世界各地を旅して回る。そこで「観光客」として楽しむ時間も束の間、謎の組織がブレインズを標的として飛行船の墜落を謀る。最終的には、極めて原始的な複葉機、タイガーモスによって一行は一命を取り留めるも、最新鋭の飛行船、スカイシップ1号は墜落する。
さて、物語は観光が謎の組織により中断されることと、最新の科学技術の敗北、原始的な科学技術への回帰を描く。この最初の2点については、前述の『大空港』以後のエアポートシリーズと同様だが、最後、その解決策として原始的な科学技術への回帰を挙げている点は、非常にイギリス的な経験論に拠ったもので『大空港』にはない。
また本作はインターナショナルな世界の構想、それ自体不安定に晒されていることを、国際救助隊の活躍をもって描かれる。つまり、インターナショナルな世界の外部としての国際救助隊が必要とされる可能性、これを法の外部としての連邦捜査局の活動を、さらなる規模にしてみせる。世俗から隔離された島、あるいは宇宙ステーションを拠点として。
脱領土としての空港
1970s
そして、1970年公開の『大空港』。当時、アメリカではベトナム戦争に対する反戦運動を受け、反体制の人間を扱う低予算の映画、アメリカン・ニューシネマが台頭していた。本作はこうした動向にハリウッドが対抗して大作主義を掲げた映画であり、大物俳優を集めたグランドホテル方式の映画作りは、ハリウッドの原点回帰といった傾向を示す。
しかし、このホテルは映画において特異な場をもたらす。
蓮實:映画撮影に独特な工場と家庭との幸福な調和という点からして、あなたの作品の舞台装置の多くがホテルであるということはどうお考えしたらいいでしょう。『カルメンという名の女』も『ゴダールの探偵』もホテルが特権的な空間をかたちづくっていますし、『ゴダールのリア王』も『パッション』もそうです。そもそも処女作の『勝手にしやがれ』が安ホテルの一部屋を舞台としていましたし、『アルファヴィル』など、まるでパリのグランドホテルが撮影所のセットのように使われていました。
ゴダール:(中略)20世紀初頭の偉大な小説家や書簡作家や作曲家などは、いずれもホテルに暮らしていた。
蓮實:あなたがよくホテルで撮影されるのは、そこがあなたにとっての亡命の地というか国籍離脱の可能な場所だからではないでしょうか。
ゴダール:それはありうる。大いにありうることだ。
蓮實重彦 『光をめぐって―映画インタビュー集』
このようなホテルを『大空港』では空港、旅客機へと移すことで、「脱領土化」と「再領土化」の複雑な混淆をみる。特に旅客機は国境を跨ぎ移動するため、法的には1機ごとに外部の領土とは別に国籍を有す。したがって、この隔離された閉鎖的空間はグローバリズムの浸透した社会の鏡像として、縮図としてグローバルなものであるが、それと同時に国を往来することで国家間、インターナショナルなものでもあり、尚且つ外部とは別に国籍を有す一つの国家でもある。
その複雑な社会の有り様を示す旅客機に、爆弾犯は攻撃を仕掛ける。無論、世界に対する一個人の反抗に歴史的契機は存在しえない。しかし、彼が特異である点はその方法にある。彼は妻のため、保険金目当てに犯行をおこなう。これは自らを金と交換するため、社会、つまり資本主義のあらゆる物を金と交換できるように、計算可能にしてしまう論理そのものである。この社会、資本主義に反抗する者の思考自体がむしろ資本主義に侵されている。これが70年代であり、それこそが学生運動を、アメリカン・ニューシネマを終わらせたのではないか。
そこで、もはや必死に諭す機長の声は意味をもたない。爆弾を抱える彼に、犯行が発覚したゆえに保険金は降りない。家族を思うならそのカバンをと機長は手を差し伸べるも、彼を救う突破口は自死あるのみ。その死は旅客機に穴を生む。この穴とは、資本主義の穴、社会の穴である。こうして旅客機の外部が、暴力的に内部を侵犯する。「脱領土化」を引き起こす。乗客は世界、あるいは「現実界」に晒され、呼吸困難に陥る。
空港を再領土化する愛
1980s
続いて80年代。この時代には70年代のような慟哭はもはや存在しない。冷戦下、西側諸国内部を行き来する限り、経済成長に支えられた社会は反動を生み出し得ない。人々は限定的な観光によって安全を謳歌する。
それを、明快に体現するのが1980年公開『フライングハイ』である。『大空港』をはじめとするエアポートシリーズを軸に、様々な映画のパロディが詰め込まれた本作。ここで、エアポートシリーズで問題とされていたようなことは、ギャグに還元されて解決する間も無く流される。旅客機は墜落の危機に導く原因となる人間すら存在せず、ただ食中毒によってパイロットが倒れるに留まる。そうしたなか辛うじて残された問題として、戦争の記憶が立ち現れる。
無論、それ自体ギャグとして描写されてはいるものの、戦闘機の元パイロットである彼が負った精神的後遺症は真に迫るものがある。また、戦時中に自らの判断ミスによって友人を失ったと考える彼は、それに執着するあまり彼女をも失ったが、旅客機の乗客を救うことで自分を、そして彼女を取り戻す。このような物語は、1986年公開の『トップガン』も同様である。1969年に創立されたアメリカ海軍戦闘兵器学校を舞台とする本作。主人公はそこでの訓練中に、相棒であるグースを事故によって失う。それ以来、自信を失った彼は引退をも考えるようになるが、実戦経験を経て自信を取り戻し、彼女との関係も回復する。
この二つに共通する主体と家族の回復とは、戦争の記憶、「痕跡」の忘却と同時に、資本主義下で離散した主体を家族と仕事によって「再領土化」する。レーガン的、新保守主義の下にある。この閉じた社会に外は見えない。
そこでは、もはや愛はフーコーが東京のシャンティイーと呼ぶラブ・ホテル的な外の悦びをもたらすことはなく、グランドホテル方式的な多様さもない。
冷戦の終焉と責任という原理
1990s
その閉鎖的な社会、その外部として唯一機能していた共産主義圏すらも、消滅したのが冷戦終結の1989年。それ以後、1990年に『ダイ・ハード2』は公開される。そこで事件は反共主義者として冷戦時代、アメリカ国務省に支援されていたラモン・エスペランザを中心にして起こる。彼は架空の南米の国バル・ベルデの独裁者であり、麻薬王でもある。冷戦終結後、アメリカにとってもはや用無しの彼は、罪に問われ、拘束して護送される。テロリスト集団はその解法を望む。つまり彼らは独裁国家バル・ベルデを取り戻すことを目的とする。
その失われたアメリカの外部を復活させる目論見、これは1997年公開の『エアフォース・ワン』も同じである。本作ではテロリスト集団は、カザフスタンのラデク将軍、その釈放を要求する。そうして彼を指導者とする軍隊でロシア政権を打倒、ソ連の復活を目論む。その彼が釈放される瞬間、刑務所の囚人たちは一斉にしてインターナショナルを合唱する。
この二作は共通して忘却されたはずの外部の「亡霊」、その絶対的な外部を想起することをやめない。それは共産主義がその声、インターナショナルによって歌われる場面に明確である。
しかし、その思惑は一人の男によって阻止される。そこで、アメリカの主権と自らの家族を天秤にかけることをテロリストによって強いられる彼は、大統領であるにも関わらず、イデオロギーを差し置いて自らの家族を優先する。その行為を前にしてテロリストは敗れる。その差異とは契約か、自然かという責任の有り様に関わる。特に彼の娘に対する責任は自然としかいいようがない。なぜなら親と子の非対称性こそが、責任を「アプリオリ」なものとして生じさせるのであるから。
子孫を思いやる気持ちは自発的なもので、道徳法則の呼び声など必要としない。この思いやりの気持ちこそ、客観的責任性と主観的責任感情との合致の基礎的な原型となるものである。この原型によって、自然は、衝動に任せておいたのでは確かとはいえない類の責任すべてをいつか持つことができるように、我々をあらかじめ教育しており、こうしたすべての責任に対する我々の感情を準備してくれている。
ハンス・ヨナス『責任という原理──科学技術文明のため 倫理学の試み──』
この「自然責任」をテロリストの保持する「大きな物語」に対抗しうるもの、あるいは歴史の終わりにおいて必要な判断力として本作は提示する。
遊牧の…戦場の…
2000s
続く2000年代、それは2001年のアメリカ同時多発テロ事件によって変わらざるを得ない。その旅客機による事件はエアポート・シリーズをも変えた。2005年公開の『フライトプラン』がそれである。物語は夫を亡くした航空機の設計士、カイル・プラットが娘とともに旅客機に搭乗し、帰路に就いたことから始まる。そこで、彼女が機内での仮眠から目覚めると、娘がいない。そのことから彼女はイスラム人らしき人物が誘拐したのではないかと疑う。 本来、以下の引用での遊牧的ー分裂症的極にあるはずの旅客機は、アメリカ同時多発テロ事件によって変容した。
連結的総合の遊牧的多義的使用法は、隔離的一対一対応的使用法に対立する。錯乱はいわば人種主義的と、ただ人種的という二つの極をもっている。隔離的ーパラノイア的極と、遊牧的ー分裂症的極である。そして両極の間には、不確かで微妙な移行が数多く起きる。ここでは無意識そのものが、みずからの反動的な負荷と革命的な潜在力の間で揺れている。
ジル・ドゥルーズ 『アンチ・オイディプス』
旅客機は隔離的な作用をもってして、隔離的ーパラノイア的極をも抱え込むのである。しかし、周囲の説得を経た彼女は娘自体、自らの妄想であり、娘も夫とともに既に亡くなっていたのであると納得する。こうして物語はパラノイア的妄想の終わりに落ち着くかと思いきや、また一転して娘の存在を探し求める。
その自閉した空間、それ自体に犯罪は内部から介入していた。妄想というあくまでも個人的なものを犯罪者たちは利用する。そこでは、遊牧的なものは既に閉ざされている。
もはや妄想を無化し、娘の存在を立証する確たる証拠は無い。その外部を意図的に閉ざされた閉鎖的空間において、ロシア的「ポリフォニー」あるいは「言語ゲーム」は機能不全に陥る。搭乗する者たち全ては同様の意思に基づくがゆえに、彼女とその他による単一的なコミュニケーションとなる。旅客機は彼女の閉鎖的空間の鏡像として自閉する。無論、グランドホテル方式的な多様さも無い。そこで彼女はあくまでも窓に残された指の跡、「痕迹」に娘の存在を確信する。ここでの現実と虚構にはっきりとした輪郭は無い。ただある「痕迹」を信じること。
つまり外を志向するためには「声」ではなく「エクリチュール」。この残された、あるいは遺されたものを信じることをこそ本作は称揚する。そのフランス的、あるいは西ヨーロッパ的な突破口をもってして、彼女は旅客機の外部をみつける。
そのさらなる鏡像として、スティーヴン・スピルバーグ監督による『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』と『ターミナル』はある。「エクリチュール」としての『フライトプラン』は、「ポリフォニー」としての『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』と『ターミナル』を映し出す。
まず2002年公開の『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』は、家を奪われ、金を奪われ、家族を奪われた男が偽造した小切手を片手に世界中を飛び回る。この資本主義的な所有を捨て、遊牧的な運動に身を委ねる彼にとって旅客機は「脱領土化」の最たるもの。しかしそのような努力も所有の重力には敵わない。所有は定住を「再領土化」を必要とする。このようにしてやがて彼すらも定職を得て定住する。そこで新たな家族なるものの形成をみるのである。
それに対し、2004年の『ターミナル』は自国の政府すら無い状態で、さらにはパスポートも無効であるがゆえに入国不可、帰ることすらままならず、旅先の空港で一人立ち往生することとなる。しかしそのターミナルに定住しだしたところ、彼には様々な仲間、恋人が生まれる。そして時が経ち、自国へと帰る目処が立ち、いよいよ目的を果たすためアメリカへと入国しようとしたところ、問題が発生する。その入国への切符は恋人との別れを意味した。旅行の、あるいは遊牧的な行為の完遂は、持たざる者であることを要請したのである。
このように、遊牧的な運動と定住的な運動は、所有の問題、それは大概にして「エクリチュール」を介するということでもある。旅客機と空港はその関係性を導き出す。
公聴会 勉強の哲学
2010s
続く最後として2016年公開の『ハドソン川の奇跡』をみるとするが、本作はバードストライクを起こした旅客機は、序盤に早々と川に不時着水をおこなってしまう。そのため『大空港』他のパニック映画とはいえない。むしろその事故以後、法廷までの時間を追う。
その事故調査委員会は、まず問題として旅客機の不時着した場所、川をあげる。それにサリー機長は、離陸直後の旅客機では他の空港に向かう時間は残されていなかったと答える。この川の問題。大陸を切断し、また接続する川は、一般人による早期の救助を可能にしたと同時に、乗客を川の対岸に分断した。そして川は彼をもその両極へと向けた。彼はアメリカ同時多発テロ事件の余波を残すアメリカ、そのメディアで英雄として迎えられる一方、事故調査委員会からは不義の目に晒される。その苦悩を抱えつつ、彼は公聴会へと向かう。
その法廷において、浮上するのが「計算不可能性」である。事故調査委員会は、バードストライク以後のパイロットの行動をシミュレーションする。そこで川ではなく空港に着陸する時間が残されていたことを証明する。しかし、サリー機長はそこには人的要因が排除されており、またタイミング、これをコンピューターで測ることは不可能だという。このシミュレーション、あるいはコンピューターの抱える「計算可能性」の外、これは法廷も同じである。それは時間の問題。法廷が「であること」の場であることが関わる。
なぜなら法廷は常に過去に起こったことを議題とし、判決とはあくまでも空間的であることを要請するからである。
東 詳しくは知らないのですが、一事不再理というのは、おそらく司法の連続性と関わる規定ではないですか。控訴のシステムはいわば空間的ヒエラルキーの構造ですから、司法システムの出す答えが時間的に変化するとまずい。司法はその意味では、あくまでも空間的、静的に作られている。とすれば、一事不再理の裏をかくということは、簡単に言えば、そこに真実が時間によって変化するという要素を導入することで、空間的なぱっと見渡せる真理の構造をひっくり返すということでしょうか。
東浩紀『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+』
こうして彼は条件付きでのシミュレーションを要求する。そこで、空港への着陸が不可能であったことがわかる。物語は無事、パイロットが無実であることが証明され終わる。
この勝利は、彼らの在り方自体が法廷の時間の問題を更新したゆえに、獲得できたものである。その彼らの思考とは、以下の通りである。
大きく分けて、思考にはツッコミ=アイロニーとボケ=ユーモアがある。根拠を疑って、真理を目指すのがアイロニーである。根拠を疑うことはせず、見方を多様化するのがユーモアである。勉強の基本はアイロニカルな姿勢であり、環境のコードをメタに客観視することであるが、その上で、本書では、アイロニーを過剰化せずにユーモアへ折り返すことを推奨している。
千葉雅也『勉強の哲学』
まずもってこのボケ=ユーモアとは、弛緩した間をもたらす。それは無人島的な「時間なき時間」、すなわち「聖なる時間」としての法廷の時間を異化する。そしてツッコミ=アイロニーにかかる時間とは、この間を分かつものとして流動的である。
この大別された二つの思考は、ツッコミ=アイロニーがサリー機長、ボケ=ユーモアがスカイルズ副操縦士に相当する。その思考が川への着陸、その後の迅速な避難、そして法廷での勝利を導いた。それは最後の二人の発言に特に見て取ることができる。
個人的に言わせて下さい/1つ 確かなことが/当機の乗務員たちや(改行)鳥類専門家—/航空技術者に話を聞き/あらゆる可能性を考えても(改行)解けない “成功の要因”/それは“Xの存在”/あなたです(改行)サレンバーガー機長/あなたを計算式から(改行)外したら—/成立しません
それは違います/私だけではない(改行)全員の力です/ジェフ ドナ シーラ(改行)ドリーン/乗客の皆さん(改行)救助に駆けつけた人々/管制官たち/フェリーや 潜水班/全員が力を尽くし/全員が生還した
スカイルズ副操縦士(改行)付け加えることは?/違う方法を取りますか?/もし また(改行)同じ状況になったら・・・はい/やるなら7月に
クリント・イーストウッド『ハドソン川の奇跡』
このようにして法廷を異化することができたのは、何よりもそれが公聴会という勉強の場であること、それによって一般にも開かれていることにある。
筆者はつぎのような光景を想像している。国会議事堂に大きなスクリーンが用意され、議事の中継映像に対する国民の反応がリアルタイムで集約され、直感的な把握が可能なグラフィックに変換されて表示される。舞台俳優が観客の反応を無視して演技を進められないように、もはや議員はスクリーンを無視して議論を進めることはできない。すぐれた演説には拍手が湧くだろうし、退屈な答弁には野次が飛ぶだろう(ネットワークに投稿された反応の解析の結果が、議員にわかりやすいように拍手や野次に変換されてスクリーンに表示されると考えてみたい)。視聴者は議決には介入できない。だからそれは直接民主主義ではない。議論に参加するのは、あくまでも民意を付託された議員だけである。しかし、視聴者の反応がそこまで可視化された状況で、私利私欲や党利党略で動くのはなかなか勇気がいるはずだ。そこでは、議員は、熟議とデータベースのあいだを綱渡りして結論を導かねばならない。
東浩紀『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』
このように、公聴会は観客に開かれた場である。しかし公聴会はさらなる「言語ゲーム」を喚起する。公聴会とは常に外から招致される者によって、その計算不可能な外部が侵入することによって、ルールを複数化し「脱領土化」する。しかしそれは観客の排除を意味しない。あくまでも観客のまなざしによって「再領土化」の契機を保持する。それこそが、島々を繋ぐ「海上の道」に開放された空港、その国際救助隊的な外部を抱えた新たな「自生的秩序」としての「世界法廷」を生み出す。世界史とはそのようにしてありうべき姿をあらわすであろう。
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